賃料の値上げ交渉で「新規相場」は通用しない|継続賃料4手法を不動産鑑定士が解説

はじめに
「周辺の相場は上がっているのだから、賃料を上げさせてほしい」「いや、契約したときの金額を簡単に変えられては困る」
ビルオーナーとテナント、地主と借地人。長く続く賃貸借関係において、賃料の改定をめぐる対立は避けて通れないテーマです。そして交渉の席でしばしば起こるのが、双方が「相場」という言葉をまったく違う意味で使っているという事態です。
貸主側が持ち出す「相場」は、いま新規に募集したら取れるであろう賃料。借主側が守ろうとするのは、これまで合意してきた賃料。実はこのふたつは、鑑定評価の世界では明確に区別された別の概念です。前者に対応するのが新規賃料、後者の延長線上にあるのが継続賃料です。
そして断言しますが、賃料増減額の交渉や訴訟で問題になるのは、ほぼすべて継続賃料です。新規募集の相場をそのままぶつけても、交渉は前に進みませんし、裁判所も採用しません。
継続賃料には、不動産鑑定評価基準が定める4つの評価手法があります。この記事では、その4手法の仕組みを計算例とともに解説し、交渉・調停・訴訟の各場面でどう使われるのかを整理します。ビルオーナーの方にも、テナント企業の方にも、そして賃料紛争を扱う弁護士の方にも、実務の土台としてお読みいただける内容です。
第1章:新規賃料と継続賃料はなぜ別物なのか
1-1. 継続賃料という概念
不動産鑑定評価基準は、賃料を新規賃料と継続賃料に区別しています。新規賃料は、新たな賃貸借契約において成立するであろう市場賃料です。これに対し継続賃料は、不動産の賃貸借等の継続に係る特定の当事者間において成立するであろう経済価値を適正に表示する賃料と定義されています(不動産鑑定評価基準 総論第5章第3節)。「特定の当事者間」という一語がこの概念の核心で、不特定多数を相手にする市場ではなく、いま現に契約関係にある貸主と借主の間で妥当な水準を問う、という意味です。
なぜ区別するのか。継続中の契約には、新規契約にはない事情が積み重なっているからです。契約締結の経緯、これまでの改定の歴史、当事者間の信頼関係、借主が投じた内装投資。これらを無視して「今の相場」だけで賃料を決め直すことは、契約の継続性を破壊してしまいます。
この考え方は法律にも表れています。借地借家法第32条第1項は、建物の借賃が租税等の負担の増減、土地建物価格の変動その他の経済事情の変動により、または近傍同種の建物の借賃に比較して不相当となったときは、当事者は将来に向かって借賃の増減を請求できると定めています(地代については同法第11条)。ポイントは「不相当となったとき」という表現です。基準になるのは、直近に合意した賃料であり、そこからの事情変更が問われるのです。
1-2. 直近合意時点という出発点
継続賃料の評価で最初に確定すべきは、直近合意時点です。これは、当事者が現行賃料について最後に合意した時点を指します。
注意すべきは、単に更新契約を結んだだけでは「合意」とみなされない場合があることです。自動更新条項により賃料据置きのまま更新が繰り返されてきたケースでは、賃料額について実質的な合意があったのはずっと前、ということがあります。直近合意時点がいつかによって、そこからの経済事情の変動幅が変わり、結論の金額も変わります。ここは訴訟でも争点になりやすい部分です。
1-3. 新規賃料との乖離はどれほどか
長期間改定されていない賃料は、新規賃料から大きく乖離していることがあります。都心のオフィスで15年前の水準のまま据え置かれていれば、新規賃料との差が3割、4割に達することも珍しくありません。
ただし、だからといって継続賃料が新規賃料まで一気に引き上げられるわけではありません。継続賃料は、契約の経緯と当事者間の公平を織り込んで決まるため、新規賃料と現行賃料の中間のどこかに落ち着くのが通常です。どこに落ち着くのかを論理的に導くのが、次章の4手法です。
第2章:継続賃料の4手法
不動産鑑定評価基準は、継続賃料の評価手法として差額配分法、利回り法、スライド法、賃貸事例比較法の4つを定めています(総論第7章第2節)。4手法に優劣の序列はなく、並列的に位置づけられています。順に見ていきます。
2-1. 差額配分法 ― 差額を当事者で分け合う
差額配分法は、対象不動産の新規賃料(正常賃料)と現行賃料との差額を求め、そのうち貸主に帰属すべき部分を現行賃料に加減する手法です。
計算例で見ましょう。月額現行賃料80万円のオフィスフロアについて、新規に貸した場合の適正賃料が月額110万円と査定されたとします。
差額 = 110万円 − 80万円 = 30万円
この差額30万円を、契約の経緯や当事者の公平を考慮して配分します。実務では2分の1とすることが多く、3分の1とする場合もあります。仮に2分の1配分とすると、
継続賃料 = 80万円 + 30万円 × 1/2 = 95万円
この手法の強みは、現在の市場実勢を評価に反映できることです。一方で、差額をなぜ2分の1で分けるのかという配分比率の根拠づけが難しいという弱点も指摘されています。
2-2. 利回り法 ― 元本価値から積み上げる
利回り法は、対象不動産の基礎価格(元本としての価値)に継続賃料利回りを乗じ、必要諸経費等を加算して賃料を求める手法です。
ここで用いる継続賃料利回りは、直近合意時点における「純賃料÷基礎価格」の利回りを基準とし、その後の経済情勢の変化を勘案して決定します。つまり、当事者が合意した時点の収益率の関係を、現在の元本価値に引き直すという発想です。
計算例です。直近合意時点の基礎価格が2億円、当時の年間純賃料が720万円(利回り3.6パーセント)だったとします。現在の基礎価格が2億5,000万円に上昇していれば、
年間純賃料 = 2億5,000万円 × 3.6% = 900万円(月額75万円)
これに固定資産税等の必要諸経費を加えて支払賃料を求めます。土地価格の変動が賃料に素直に反映される点が特徴で、地代の評価で比較的よく用いられます。
2-3. スライド法 ― 変動率で引き直す
スライド法は、直近合意時点の純賃料に、その後の経済情勢の変動率を乗じて求める手法です。
変動率には、消費者物価指数、市街地価格指数、賃料インデックス等の指標を、対象不動産の性格に応じて組み合わせて用います。
計算例です。5年前に合意した月額賃料80万円について、この間の関連指数の変動から変動率をプラス8パーセントと査定した場合、
継続賃料 = 80万円 × 1.08 = 86万4,000円
この手法は、当事者が合意した賃料を出発点とするため契約の継続性を最も尊重する一方、合意時点の賃料が市場実勢から乖離していた場合には、その乖離も引き継いでしまうという性質があります。
2-4. 賃貸事例比較法 ― 継続中の事例と比べる
賃貸事例比較法は、類似の継続賃料の改定事例を収集し、対象不動産と比較して賃料を求める手法です。
理屈としては素直ですが、実務上は大きな制約があります。継続中の契約の改定事例は外部から把握しにくく、契約の個別事情(締結経緯、改定履歴)まで比較できる事例はさらに限られるからです。このため、4手法の中では補助的な位置づけにとどまることが多いのが実情です。
2-5. 4手法の結果をどう調整するか
4手法はそれぞれ異なる視点に立っているため、試算賃料は一致しません。鑑定評価では、各手法の持つ長所と短所、対象不動産の契約の経緯、当事者間の公平を総合的に勘案して、試算賃料を調整し鑑定評価額を決定します。
実際の裁判例では、差額配分法とスライド法を中心に据え、両者に重みづけをして加重平均する例が比較的多く見られます。市場実勢を映す差額配分法と、契約の継続性を守るスライド法のバランスを取る、という発想です。
第3章:交渉から訴訟までの実務プロセス
3-1. 増減額請求は「請求したとき」から効く
賃料増減額請求権は形成権(相手方の承諾を得なくても、一方的な意思表示だけで法律関係を変動させる権利)と呼ばれ、請求の意思表示が相手方に到達した時点で、将来に向かって効力を生じます。裁判で金額が確定するのが2年後であっても、増減の起算点は請求時に遡ります。
これは実務上きわめて重要です。増額側から見れば、請求が遅れた分だけ増額分を取り損ねます。減額側から見れば、請求せずに払い続けた賃料は原則として取り戻せません。まず内容証明郵便等で請求の意思表示を明確にしておくことが、どちらの立場でも出発点になります。
なお、賃料自動改定特約や「一定期間増額しない」という不増額特約がある場合の取扱い、協議条項との関係など、契約条項の解釈には法律判断が伴います。具体的な進め方は弁護士にご確認ください。
3-2. 調停前置主義 ― いきなり訴訟はできない
借地借家法上の賃料増減額請求については、訴えを提起する前に、まず調停を申し立てなければなりません(民事調停法第24条の2、調停前置主義)。
調停では、当事者双方の主張と資料に基づいて話し合いが進められます。ここで威力を発揮するのが、鑑定評価書あるいはそれに準ずる意見書です。「相場が上がった気がする」という主張と、「4手法により継続賃料を月額95万円と査定した」という主張とでは、調停委員会に与える説得力がまったく異なります。
調停が不成立となれば、訴訟に移行します。訴訟では裁判所が選任する鑑定人による鑑定が行われることも多くありますが、当事者が私的鑑定として提出した鑑定評価書は、裁判所の判断や和解水準の形成に影響を与えます。
3-3. 増額を求める側・防ぐ側それぞれの準備
増額を求める貸主側の準備は、直近合意時点以降の事情変更を立証することに尽きます。固定資産税の推移、周辺の新規賃料水準の変化、土地価格の上昇。これらを、対象不動産に即した資料として揃えます。
減額を求める借主側・増額を防ぐ借主側は、逆の立証に加えて、契約の経緯を丁寧に拾うことが有効です。長期契約を前提とした賃料設定だったこと、借主が多額の内装投資をしていること、過去の改定で既に一定の調整が済んでいること。これらは継続賃料を現行賃料寄りに引き寄せる事情になります。
どちらの側であっても、自分に有利な数字だけを並べた資料は、調停・訴訟の場では逆効果です。4手法の枠組みに沿った説明のできる資料こそが、結果として交渉を有利に運びます。
まとめ
賃料の改定交渉で問われるのは、新規募集の相場ではなく継続賃料です。そして継続賃料は、感覚ではなく4つの手法の枠組みで論理的に導かれます。
要点を振り返ります。
- 継続賃料は新規賃料とは別の概念であり、借地借家法第32条(地代は第11条)の増減額請求で問題になるのは、直近合意時点からの事情変更である。
- 差額配分法は新規賃料との差額を当事者間で配分する手法で市場実勢を反映しやすく、スライド法は合意賃料に変動率を乗じる手法で契約の継続性を最も尊重する。
- 利回り法は基礎価格に継続賃料利回りを乗じる手法で地代評価に適し、賃貸事例比較法は改定事例の収集が難しく補助的な位置づけにとどまることが多い。
- 賃料増減額の効力は請求の意思表示が到達した時点から生じるため、増減いずれの立場でも内容証明等による早期の請求が出発点になる。
- 訴訟の前には調停前置主義により調停を経る必要があり、その場では4手法の枠組みに沿った鑑定評価書が説得力の中核になる。
長年据え置いた賃料の増額を検討しているビルオーナー・地主の方、値上げ通知を受け取って妥当性を検証したいテナント企業の方、そして賃料増減額請求事件の証拠資料を検討されている弁護士の方へ。交渉の土台となる継続賃料の査定から、調停・訴訟に耐える鑑定評価書の作成まで対応しております。訴訟・調停における鑑定評価のご依頼、初回のお打ち合わせは無料です。



